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2023年3月7日 追加

帰って来たヨッパライ

ザ・フォーク・クルセダーズ / 紀元弐阡年 ▶ Spotify

エッセイ ・ 約 2 分

機材のないアマチュアの早回し

「テープの早回しは、僕の思いつきだった。」ザ・フォーク・クルセダーズの加藤和彦は、『加藤和彦読本』(音楽出版社)に収められた文章で、この曲の音の仕掛けをそう説明している。TAP the POPの佐藤剛がコラムに引いた一節で、書かれた年はコラムに示されていない。1

足りなかった曲の穴埋め

佐藤のコラムによれば、1967年、アマチュアのグループだったフォークルは解散を決め、北山修の発案で記念のアルバムを作ることになった。予算が限られていたため、半分はラジオの公開番組で録った音源を放送局から借りて埋め、スタジオで録るのは残りの半分だけにするつもりだった。ところが入れる曲が足りなくなり、加藤が友人の松山猛と遊びで作っていたこの曲に出番が回ってきた。モチーフになったのは、カントリーの「ヒルビリー天国」だったという。1

加藤の文章は続く。ビートルズがインドに傾倒し、海外でサイケデリックな音楽がはやり始めていた頃で、あらゆるジャンルのレコードを聴きあさっていた自分も、独自の音を作りたかった。だがアマチュアだから機材がない。せめてということで、テープを早回しにしてみた。当時シンセサイザーがあったら、きっと使っていただろう、と。1

洋楽部から出た一枚

その後の経緯は、音楽評論家の岩田由記夫が2023年、おとなの週末Webの連載に書いている。300枚限定の自主制作LP『ハレンチ』の収録曲がラジオ関西のディレクターの手に渡り、1967年11月に深夜番組で流れた。近畿で話題になると、ニッポン放送「オールナイトニッポン」のDJだった高崎一郎も自分の番組でかけた。2

シングルは1967年12月、東芝音楽工業の洋楽レーベル、キャピトルから出た。担当は、日本でのビートルズの初代ディレクターだった高嶋弘之である。岩田が高嶋本人から聞いた話では、1960年代初めのレコード会社の洋楽部は、海外から届く盤を選んで出す小さな窓口だった。この曲はあまりに突飛な内容で、邦楽部は発売に否定的だったが、高嶋はその突飛さに目を付けて洋楽部から出すことを決めた、と岩田は書く。2

Appleのデータでは、この稿で扱う『紀元弐阡年』の2曲目は約3分24秒で、日付欄は1968年。『ハレンチ』にもほぼ同じ長さの同題曲があるが、二つが同じ録音か、シングルと同じ録音かは確かめていない。3

武道館の一曲目

2016年3月1日、日本武道館で開かれた「オールナイトニッポン ALIVE ~ヒットこそすべて~」で、この曲は一曲目に選ばれた。歌ったのは北山と坂崎幸之助。加藤は2009年に亡くなっていた。4 その前月、佐藤を交えた鼎談で北山は、加藤とこの曲を作ったときの感覚を大事にしたい、と話している。初めから大きなものを作ろうと思わず、小さなところから始めても、結果的に大きなメッセージは発信できる、と。4

出典・注

[1] 佐藤剛, 東京から来たミュータント~きたやまおさむが出会った頃の加藤和彦, TAP the POP、2025年10月15日(2017年10月17日公開のコラムの再掲、L123)。解散と記念アルバムの経緯はL104–105、松山猛との曲作りはL102–103、「ヒルビリー天国」はL106(曲名のみ使用)、加藤の文章はL113–117(直接引用はL114の最初の一文。出典表示は『加藤和彦読本 第一章 加藤和彦事件簿』音楽出版社)。

[2] 岩田由記夫, 「帰って来たヨッパライ」の衝撃 “ぶっとんだ内容”に異例の「洋楽部」からリリース, おとなの週末Web、2023年6月2日。発売の時期とレーベルはL94、高嶋弘之の紹介はL96、洋楽部についての高嶋の話はL100–101、邦楽部と洋楽部の判断はL102。2ページ目のL90で自主制作盤とラジオでの広まり。

[3] iTunes Search: 帰って来たヨッパライ, Apple(日本)。『紀元弐阡年』2/12曲、204,493ミリ秒、日付欄1968-01-01。『ハレンチ』8/12曲、205,350ミリ秒、日付欄1967-01-01。

[4] 佐藤剛, 「帰って来たヨッパライ」と「コブのない駱駝」に託されていた北山修と加藤和彦からのメッセージ, TAP the POP、2026年6月18日(2016年3月公開のコラムの再掲、L106)。加藤の死はL89、武道館の公演と一曲目はL92–94、北山の言葉はL103、発言が2月2日の鼎談によることはL105。武道館の公演の年は、コラムの公開年月(L106)による。

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