誰のために書かれた曲か
2023年4月、研ナオコは日刊ゲンダイDIGITALの連載コラムで、りりィのこの曲はもともと自分のために作られた曲だった、と明かした。ナオコちゃんのために曲を作ったから歌って、とりりィに言われ、そのときギター一本で歌うのを初めて聴いた。素晴らしい曲だと思ったが、りりィのあの声でなければ良さは伝わらないと感じた。そこで返した言葉が「りりィが自分で歌った方がいいよ」だった、と研は書いている。1
プロデューサーの側の記憶
りりィのプロデューサーだった寺本幸司は、2016年9月、大人のミュージックカレンダーに寄せたコラムで、別の角度からこの曲を振り返っている。寺本によれば、この曲は突然りりィの中に湧いて出てきたもので、それまで進んできたブルース調のロックの路線とはまるで違う、歌謡曲ともとれるわかりやすい曲だった。とまどったまま歌入れのテープを聴かせると、新田チーフ・プロデューサーや武藤ディレクターは大乗り気だったという。2
TAP the POPの佐々木モトアキのコラムが書籍から引く寺本の言葉では、上り調子のりりィに発破をかけたところ、すぐに本人から、曲ができたので聴いてほしいと連絡があった。3 研のために書いたと言って渡された曲と、りりィの中から突然出てきた曲。二つの記憶は同じ曲の始まりを違う場所に置いていて、どちらかに畳む材料はない。
ベースを抱えた一曲
寺本のコラムでは、シングルの録音はりりィのサウンド・プロデューサーだった木田高介の編曲で、ワルツだがリズムのはっきりした形になり、ニューハードの市原のクラリネットが絶品だった。それまでのロックの姿勢は残したかったので、この一曲だけはベースを持って歌ってもらい、ジャケットの撮影でもベースを抱えてもらった、という。2
3月5日に発売すると、3日目には10万枚の追加注文が来た。オイル・ショックで経済が落ち込み、新聞に題名と同じ見出しが躍ったこともあったのか、と寺本は推し量っている。オリコンでは小坂明子の「あなた」を抜けなかったが、実数87万枚になった、と寺本は書く。2 りりィ本人の回想としてTAP the POPが書籍から引く言葉では、そこそこの売れ行きが続き、歌手を辞めたらカナダに移ろうと考えていたところへこの曲が当たり、辞められなくなった。3
Appleのデータでは、この稿で扱うのは1974年の日付のアルバム『タエコ』の6曲目で、約3分28秒。シングルと同じ録音かどうかは確かめていない。4
ステージの最後の曲
ヒットのおかげで、それまで厚生年金会館の中ホールくらいだった会場が、渋谷公会堂や郵便貯金ホールといった2,000人以上が入るホールになった。寺本は、りりィをリード・ヴォーカルに据えたバンドを組んだ。ステージでは、この曲を後半の大事なところで歌った。けれど最後の曲は、相変わらず「心が痛い」だった、と寺本は書いている。2
出典・注
[1] 研ナオコ, りりィのヒット曲「私は泣いています」秘話 「ナオコちゃんのために作ったから歌って」と言われた, 日刊ゲンダイDIGITAL(連載「研ナオコの『スッピンでしゃべります』」)、2023年4月20日。L45–48(直接引用はL48の研の言葉)。L50の家族についての記述は、研自身が不確かな話だと断っているので使っていない。
[2] 寺本幸司, りりィのミリオンヒットした「私は泣いています」の発売から半年後、1974年9月5日に…, 大人のミュージックカレンダー、2016年9月5日。曲の出どころと歌入れのテープはL36–37、編曲とベースの件はL37–38、発売後の注文と枚数はL39–40、会場とバンドとステージはL41–44。
[3] 佐々木モトアキ, 私は泣いています〜あの魅惑のハスキーボイスは深酒のせいだった、不況の時代にヒットする歌の方程式とは!?, TAP the POP、2023年11月8日。寺本の言葉はL94、りりィの言葉はL97–98。引用元として『フォークソング―されどわれらが日々』(文藝春秋)と『フォーク名曲事典300曲』(富澤一誠、ヤマハミュージックメディア)がL101–102に挙がるが、どの言葉がどちらからかは示されていない。発言の年も不明。
[4] iTunes Search: 私は泣いています りりィ, Apple(日本)。『タエコ』6/11曲、207,960ミリ秒、日付欄1974-06-05。